「メディアはメッセージである-”The medium is the message” 」と言ったのはマクルーハンだったか。
コミュニケーション科学で一番最初に習うのは「メディア」とは「媒介」であり、重要なのはその中身、いわゆる「コンテキスト」とか「メッセージ」というものであるということだ。「メディア」とはあくまでそれらを媒介するパイプのようなものであって、それが本という形であろうと、TV番組として放送されようと、Webページで世界に公開されようと、コンテキストがきちんと伝わればその違いに大きな差はない、と言われている。
しかし、前述のマクルーハンのメッセージは、「メディア」そのものが、コンテキストと同等のあるメッセージ性を持っているということを意味する。本は本としての、TVはTVとしての、WebはWebとしての、そのメディア固有のメッセージ性を内包しており、コンテキストの内容と関係なく、受け手は必然的にメディアそのものから何らかのメッセージを受け取る。これは、「メディア」が単なる媒介物以上の働きをすることを表しており、その意味では従来のコミュニケーション科学の常識を覆すものであった。彼の「メディア論」が非常に注目を集め、その後のコミュニケーション科学やメディア研究に多大な影響を与えたのは、そのためだ。
そして、ありとあらゆるメディアが跋扈する超多メディア時代と言っても良い現代においては、それぞれの「メディア」そのものが持つメッセージ性を理解した上で適切に使いこなす事が極めて重要となる。メディア・ミックスという言葉は、手垢が付き過ぎて錆び付いたものになってはいるが、現代ほどその巧拙が問われる時代は無いのではないだろうか。これは何も、マスメディアだけに限った話ではない。あらゆるコミュニケーション手段、あらゆるメディア全般に対して言えることだ。
さて、何でこんな堅っ苦しい話をしたのかというと、ふとした事でこんなブログを見ちゃったからです。
マイペイサジコル 「誰の為のウェブサイト?誰の為の同人誌?」のご意見に対して
いやまあ、内容自体は仲間はずれにされた厨房がキレて泣きながら無茶苦茶な論理立てで自分の正義を主張するという、極めて厨房ちっくな文章で、それだけ見れば「あぁ夏ですね」って感じなのですが、どうもこう「何かを創造・発信する」という行為の根幹や「メディア」というものの特性について、まったく無知なのではないかと不安になったのです。
同人に限らず、すべからく創作という行為は自分のために行うものだ。表現したい何か、形にしたい何か、伝えたいメッセージ・・・いずれにしろ、そういった内なる欲求が根源にあって、それをある人は文章に、ある人は絵に、ある人は映像に、音楽に、模型に・・・といったように、あるメディアの形に宿して表現する。それが創作、クリエイティブという作業なのだと思う。
無論、これを単に自分の思いだけでやってる間は自己満足、マスターベーションでしかない。がしかし、創作という行為は同時にコミュニケーション的な要素も含んでいる。内なる欲求を何とか他人に伝えようとして、より伝わりやすい形式やより触れやすい媒体、より良い表現様式などを模索し追求する。そういう努力が幾重にも積み重ねられ、多くの作品が生み出されてきた結果、文化と呼んで良いほどの繁栄を得るに至っていると言える。
この過程において重要となるのは、「より伝わりやすい形式やより触れやすい媒体、より良い表現形式などを模索し追求」し続ける事だ。これをメディアとの関わりで具体的に言うと、自分のメッセージをもっともわかりやすく表すことが出来るメディアを考えることであったり、届けたい層にもっともリーチしやすいメディアを選ぶことであったりする。そして現代においては、それを単一のメディアで閉じて行う理由はまったく無い。いやむしろ、メッセージやコンテキストをより良く表現し広く伝えるために、個々のメディアの特性を踏まえた上で、積極的に多様なメディアを使いこなしていく事の方が求められると思う。我々自身の生活を振り返ってみればわかるだろう。あふれかえる雑誌や書籍、毎日垂れ流されるTVやニュース、日々更新されるWebサイト・・・日常からあまりにも多くのメディアに晒されている我々は、それらを何らかの形で選択的に受容するしかない。そのような環境の中で、誰かに何かを伝えたいと思ったら、あらゆる手段を行使してしかるべきなのだ。
だから、「ウェブサイトの本来の読者はウェブサイトの利用者。ウェブサイトが同人誌を出すという行動は、決してそこを見たものではない。(維持)」なんて言う主張はまったくの的はずれだし、「本来の読者がウェブサイトにいる事は変わらない。同人誌を出す行為はそれに背く。(維持)」なんてのは、創作とその発信というクリエイティブな所行をそのものをまったく理解していないと言う他ない。もしオタクと言われる世界に居る人たちが、こんなのばっかであれば日本のコンテンツ産業の未来はお先真っ暗だろう。
が、まあ幸いなことに、前述の記事に対してはわりあい理性的なツッコミが入っていたので、日本もまだまだ大丈夫なんだと思った次第ではある(下記参照)。
1705. 同人誌の読者対象って、Webサイト読者じゃないとダメなの? – Snow Swallow
しかし、このような厨房な記事が出てくる背景には、日本においては「メディア」というものに対するベーシックな教育がほとんど行われてないという実態である。以前の記事でも書いたが、日本ではメディアリテラシーなんて言葉は知らない人の方が多いし、教育カリキュラムに取り入れているのなんてごくわずかの大学がある(それも大概専門科目として)くらいでしかない。要するにド・マイナーな分野なわけだ。これほど多様なメディアが乱立し、コンテンツが溢れ、デジタル時代だコンテンツ立国だと叫んでいるのに、あまりにお寒い状況だと思いませんか?
本気で日本がコンテンツ立国を目指すのであれば、初等・中等教育(小学~高校)からのメディアに対する教育をしっかり行うべきである。実際に様々なメディアに触れ・作り・発信する事を通して、それぞれの特性を理解し使いこなす能力を育成する事なしに、コンテンツ立国など不可能でしかない。それどころか、そのような能力を持たない人間は、情報が氾濫する超多メディア時代の中ではすぐに溺れ死んでしまうだろう。
幸い?な事に、オレのような多くのオタクやギーク(や2ちゃんねら)と言われる人間は、インターネットの登場によって否応なしに超多メディア時代を生き抜く術をたたき込まれてきた。もしかすると、そのような生き抜く術を多くの次世代の人に伝えていく事が、これから先の我々に期待されることなのかも知れない・・・
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